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2000/12/9 Saturday

甘えと人間関係

Filed under: 公開記事 — admin @ 0:00:35
執筆者
すー

新たに人間関係が結ばれる際には少なくともその端緒において必ず甘えが発動していると言える。

―土居健郎『甘えの構造』

なぜそう「言える」のだろうか? むしろ一般的には人間関係に甘えは必要ないし持ち込まれるべきではないと言われることのほうが多いのではないか。それとも、端緒においては必要だが、一度関係が成立してしまえば不要になってしまうのだろうか。甘えは排除されるべきなのだろうか?

そもそも甘え排除論者は人間と人間関係一般についてどのような見方をしているのだろうか。私見によれば、甘え排除論は、人間は完全であるべきだという規範と「不完全な子供」/「完全な人間=大人」という対立構造に基づいた人間理解とを前提にしている。子供と大人とは同じ人生のそれぞれ一部であって本来対立するものなどではないように思われる。それにもかかわらず、この二つは単に対比されるばかりではなく、しばしば激しく対立するものとして語られる。この対立の深層にあるのが甘え/自立という対立なのだ。

自立が人間が目指すべき目標として掲げられたのは世界的な流れであって、日本に限定された話ではない。しかし、自立という善に対立する悪として、隷属や搾取ではなく甘えという概念が置かれたところに日本的な特徴があるといえるだろう。ここに幼児期の母子関係に起源を持つ甘えという概念を持ってきたことで、大人/子供の対立はいっそう強化されることになった。

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大人/子供が対立されるものとして扱われる状況にはもうひとつ重要なものがある。それは「人間」としての資格が問題にされるときだ。ここで問題にしているのは、一定の年齢に達していない子供が社会の成員として認められないことではない。人間にとって人間としての資格は、資格を持たない人間もどきではないという信念が自分の自尊心を保持するのに役立つという意味で、しばしば重要な意味を持つ。半世紀前のドイツ人にとってユダヤ人でないということが重要であったように。大人/子供という区別もまたそのひとつの例であるが、時に他の区別を説明するメタな基準として使われてきた。例えば、アメリカでは黒人男性が年齢を問わずに「ボーイ」と呼ばれた時代があったし、現在の日本でも、男性を「ファミリーネーム+さんづけ」、女性を「ファーストネーム+くんづけ」で呼ぶような例は残っているかもしれない。

だが、こうした差別はなくなりつつあるので、大人/子供の区別も重要でなくなるのだろうか。いや、平等への意識が高まったことで大人/子供という区別の重要性はかえって高まってしまったといえるだろう。「人間」としての資格によって自尊心を保とうとするなら、他の差異が使えなくなった今となっては、「子供ではない」という基準こそ最後の砦であるかもしれない。

「子供っぽさ」とは未熟、未完成、欠如といったものであり、対比される「大人らしさ」は何の欠落もない完全さとなるだろう。このとき、甘えとは不完全な子供が不足さを大人に補ってもらうために特別に許されるものである。したがって大人になっても甘えを卒業できないものは「われわれ」の社会の一員たる資格をもたない。

甘えは自立の妨げになるから厭われるのではない。「完全で自立した大人」対「不完全で甘えた子供」という大きな枠組みの中で他の概念と複雑に絡み合い、それらの文脈の中で多様な意味を与えられながら、人間の否定されるべき、あるいは排除されるべき側面の核となっているのが甘えなのだ。

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このような枠組みの中で人間関係はどのようなものであるのだろうか? 人間が完全な存在であって何でも自分で出来るのなら、他者の存在は必要でない。それなのになぜ人は他者と関係を結ぶのだろうか?

この問題を回避するひとつの方法は「人間」の条件に「社会的であること」を付け加えることである。人間関係は人間の存在そのものと不可分に結びついている。これが出発点であって理由などない。他者と関係を結ばない人間は「人間」の範疇にはいらないだけだ。これでは議論にならないので、もう少し穏健に説明しようとするなら、人がそれぞれ占めている社会的位置に伴う義務として説明することができるだろう。人には社会の中に占めている位置、果たしている役割というものがあって、夫や妻もそのような社会的地位に当たる。夫婦の関係を保つということはすなわち夫(妻)としての役目をきちんと果たすことだ。そしてこの役割を果たさないことで甘えと非難されるのはありそうな話だろう。

これによって甘えという概念に生じたある微妙な変化が説明される。甘えは本来対象を必要とする。しかし、ここでの甘えは自己の役割に焦点があって対象が必ずしもはっきりしていない。今や「甘え」は「完全でないこと」それ自体を指し示し、大人/子供の対立関係の中で社会の成員としての欠格を告発する用語となった。

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対象を失ったのは「甘え」ばかりではない。この論理によれば、人間関係において相手は重要でない。自分の行為の結果は相手がどう受け取るかではなく、社会的にそうすべしと認められているかどうかによって判断される。自分が社会的になすべきことをしてさえいれば、相手が不満を抱いていてもそれは相手が悪いのだ。逆に互いに幸せで満足していたとしても社会的な条件を充たしていなければその関係はちゃんとしたものとして認められない。

完全な人間にとっての人間関係を説明するもうひとつの方法は関係を余剰物として捉えることだ。人間の条件をすでに充たしてしまった人間が、余った時間やエネルギーを振り向けるもの-私的であまり重要でない人間関係がこのカテゴリーに入るだろう。このような関係はいわば単なる嗜好品であって、完全な人間が自分の存在にとって意味ある何かをそこから得ることはない。これ以上の何かを「本当の関係」などといって求めてしまうことは、不完全さを自ら暴露してしまうことであるし、相手への依存であってつまり甘えである。ここでも人間関係に相手の存在は意味のないものである。

私たちはこの相手なき人間関係を生き続けるべきなのだろうか? 「受身的対象愛」とも表現される甘えは、相手の存在を強く要求する。そもそも、甘えなき人間関係は必然的に相手なき人間関係であるかもしれないのだ。ストーカーのような現代的な問題のいくつかは、そうすべきではないということを示唆しているようにも思われる。甘えを肯定する論拠としては不十分かもしれない。が、私たちはそうまでしなければ自尊心を守ることができないのだろうか? あるいは自立という目標はそれだけの価値があるのだろうか? そうではなくて、人間関係に相手を取り戻すことで私たちの人生がよりよいものになる可能性を探った方がいいのではないか?

甘えという概念はこのような試みに大きく貢献できると私は考える。甘えは、人間と人間もどきをめぐる西欧的な対立の枠組みを柔らかく穏やかに変えられるかもしれない。奴隷が奴隷でなくなるには支配者に対して革命を起こさなければならない。甘える子供は自立した大人から様々なものを学び取って自由になりうる。そしてそのことに劣等感を感じるいわれはない。それどころか大人になって他人から何かを学びとるのは品位ある行動でもあるだろう。私たちが現在人間を語るときの大きな枠組みの中で混乱している「甘え」をそれぞれの文脈で丹念に再検討すること、それが必要だ。―次回それについて書くつもりはないけれど。

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